2010年12月24日金曜日

ユンカース ルフトハンザドイツ航空の祖


マリエン教会の後ろには城跡があります。そこは1918年まで存在したアンハルト公国の居城でしたが、

第二次大戦の空襲で殆ど破壊されてしまいました。部分的に残った建物は、市の歴史博物館として利用されています。

その歴史博物館にいくというプランもあったのですが、入場料が高かったのでパスすることに。3ユーロはちと高い。



そもそもなぜデッサウは第二次世界大戦時に空襲の標的にされたのか。

日本でもそうでしたが、ある町が空襲の標的にされた理由の一つとして軍需工場の存在をあげることができます。

例えば私の故郷である大阪には、大阪城の東側一帯に東洋一と謳われた砲兵工廠がありました。

その他の町でも、軍需工場がある地域は徹底的に空襲で破壊されたそうです。

ではデッサウにはどの様な重要軍事関連施設があったのか。

 

 

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デッサウにはフーゴー・ユンカース(1859-1935)が設立した航空機・エンジンメーカーであるユンカースの工場がありました。

ストーブ作りから出発したこの会社は、その後ディーゼルエンジンを制作し、20世紀初頭に飛行機を作りを始めます。

しかしフーゴー・ユンカースは航空機作りだけでなく独自の航空会社を作ろうという計画をも持っていたようで、

それはJunkers-Luftverkehl-AGという航空会社設立によって実現されます。

そしてJunkers-Luftverkehl-AGは その堅牢性と安定性故に、20世紀初頭における世界最大の航空会社になりました。

後にドイツにもう一つあった航空会社Aero Lloydと経営統合し、今日のルフトハンザドイツ航空が出来ました。



ユンカースは旅客機だけでなく戦時中にはドイツ空軍に軍用機も供給しました。

その殆どがデッサウの工場で作られたので、大戦中に空襲の標的とされ、工場の殆どは破壊されてしまいました。




市立歴史博物館を後にした私と友人は、このユンカース博物館(Techinikmuseum Fugo Junkers)を訪れることにしました。

町の中心部から結構離れたところにあり、路面電車とバスを乗り継いでひたすら西へ西へと向かいました。

しかし、乗ったバスが博物館近くの停留所に止まらないバスだったので、博物館前までは徒歩での移動となりました。

足下は深い雪。そして吹雪。このまま遭難してしまうんじゃないかなーって思うような状況で2キロぐらい歩いたら、

ようやく博物館の入口を示す看板(写真)が見えてきました。

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