2011年4月21日木曜日

Bonn Bad-Godesberg 9年前の記憶を辿る

ボンから南西にボン バート・ゴーテスベルク(Bonn Bad-Godesberg)という町があります。
ここで私は2002年11月に語学学校でドイツ語の勉強をするために1ヶ月間暮らしたことがあります。9年前ですね。

 

文章を読んでくれる人はあまりいないと思うけど、回顧録風に9年前の様子を綴ってみたいと思います。



 

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バート・ゴーテスベルクの駅舎です。旧西ドイツ時代は各国の大使館が置かれ、外交官の町として栄えたそうです。
確かに大きなお屋敷、整備された公園等々、町自体が落ち着いた雰囲気が漂っています。駅舎はボロボロだけど。

 

 

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ここに語学学校があったはずなのですが・・・。なんと、建物が売りに出されており、語学学校は移転してしまったようです。
後で調べたら、ボン市内にあるボン大学の近くに移転したのだとか・・・。
私がここを選んだのは「ベートーヴェンが生まれた町ボンでドイツ語が学べる!!」という理由からだったのですが、
実際に学校があったのはボン市内ではなくてここバートゴーテスベルクでした。ボンから結構離れててがっかりしました。
「あちゃー騙されたー」と思い、ここで知り合った同い年の日本人男性とよくこの町を「似非ボン」と言ってました。
この建物には当時10名程度しか住めなかったので、大半の生徒は郊外のアパートやWGからバスを使って通っていました。

 

 

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通学の時に使ったバス停です。このすぐ下には地下鉄が通っており、ボン市内やケルンまで行くことがで来ます。
バス停の隣は市民公園になっています。よく授業の準備で使ったのを覚えています。



私も郊外のWGで生活をしていました。アンナベルガー通りという小さな集落で、近くにハリボーの工場がありました。
この1ヶ月間はほんと過酷でした。授業は難しくてついていかなかったし、家に帰れば同居人はろくでもない人だったし・・・。
同居人はボスニアから来た初老の男性で、銀行員だったそうです。内乱で職を失ったとか言ってたのを覚えています。
私が来る前から住んでおり、最初は結構親切だったのですが、徐々に彼の生活スタイルに翻弄されていきました。

 

それはこの語学学校の授業システムと関係していたと思います。
授業ですが、教室数が少なく小さいため、初級者コースは午前中に、中級、上級者クラスは午後に行うというシステムでした。
私は中級者コースで同居人は初級者コースでした。私は午後5時頃家を出て、6時の授業に出席していました。

 

家に帰ると、午前中の授業を終えた同居人がワインを飲みながら居間にあるテレビを見ながら一人でがははと笑っています。
週末以外毎日続きました。最初のうちはよかったのですが、次第に私の家でのくつろぎタイムを奪っていきました。
夜の10時以降になったら静かになるだろうと思っていたのですが、テレビタイムは夜の2時頃まで続きました。

 

ドイツ語の勉強のためにテレビを見るのは確かによいことです。
しかし、酒で気分がよくなり、毎晩毎晩大音量のテレビを見ながらガハハガハハと笑われるとさすがにおかしくなってきます。
何度かテレビの音量については注意しましたが効果なし。注意を続けると「これが精一杯だ」と逆ギレされました。

 

ある時、テレビの音量と笑い声を注意したら、同居人は怒りの表情を浮かべて私をキッチンに連れて行きました。
近所のスーパーで買ったミネラルウォーターの空きペットボトルをキッチンの脇に10本ほど置いていたのですが、
同居人はそれを指差して「何とかしろ」と言ってきました。

 

つまり「俺のことばかり注意するけど、お前はどうやねん!!」と言いたかったのでしょう。
欧州人によくあること。自分の非を認めることなく「お前はどうなんだ」と他人の非を責めるというのは・・・。
それに空ペットボトルをキッチンに置くのはよくあること。結構スペースはありましたし。

 

じゃあその同居人さんが相当なきれい好きかと言えばそうでもありません。
バスタブ付の浴室があったのですが、入浴後は綺麗に掃除しないし、風呂場に靴下や下着を干しては散らかしっぱなし。
せめて風呂ぐらいはストレスなく入ってスッキリしたかったのに、そうはさせてくれませんでした。

 

キッチンの件。私は翌日すぐにペットボトルを返却しに行きましたが、それでもテレビの大音量と笑い声は変わらないまま。
さらに注意したら、今度は殴るポーズを見せてきたので、酔っぱらいには関わるまいと思いそれ以降注意するのをやめました。
ドイツじゃこういう共同生活は当たり前で、同居人との関係をしなけりゃと思っていましたが、さすがに無理でした。

 

私のストレスは3週間頃にはピークに達していました。クラスメイトとの関係も上手くいかず、授業でも落ちこぼれ・・・。
何もかも嫌になり、授業に病気という理由でサボり気味になり、一人で映画を見に行ったり、町を散歩したりしていました。
食欲もなく、ご飯を作ろうと思っても家に戻れば頭のおかしい同居人がいる。正直居場所はどこにもありませんでした。

 

しかし、そんな状況下で唯一私を和ませてくれたことがありました。
私が住んでいた敷地にはもう一つ語学学校に通う生徒用の住居がありました。私のところ同じ2人で一つのフロアを使うタイプ。
その住居と洗濯機は共同で使うようになっており、ある時アジア人男性を見かけました。

 

声をかけてみると何と日本人でした。さらに話してみると何と同い年ということが判明。高知県出身の男性でした。
大学時代は仏語を第二外国語として選択していたけど、卒業後に哲学を勉強したくなり一念発起ドイツ語を始めたとか。
言葉を習得するにはドイツに行く方がよいと考え、1年間白木屋でバイトをして100万円以上貯めたのだそうです。

 

ドイツ語は初心者だったけど、とても勉強熱心な人でした。親しくなるにつれて彼の家にお邪魔することになったのですが、
テーブル、冷蔵庫、本、鍋等々、部屋の調度品全てににドイツ語が書かれた付箋が貼られていました。
それでドイツ語の語彙を増やそうとしていたんだなと・・・。

 

その後彼は1年ほどドイツに滞在し、最終的には中級の上ぐらいまでドイツ語の腕を上げたのだとか。
彼とはその後2003年の3月と12月に会い、2004年に彼が「帰国して大阪に行く」と教えてくれたのですが会えず終いでした。
その後どうしてるのかな・・・。

 

ここの持ち主さんはいい人でした。
苦しかった語学学校でのドイツ学習を終えた後、フランス人の友人がいるパリへ遊びに行くことになっていました。
ケルンからタリスに乗る予定でしたが、ケルンで宿をとっていませんでした。

 

学校が終り部屋を明け渡す日に「明日どうするの」と訊ねられ「明日パリに行きます」と言うと、
「じゃあ、もう一日部屋使っていっていいよ。朝早くに鍵返してね」ともう一泊部屋を使わせてもらえました。

 

町を散策していると、このような9年前の記憶が甦ってきました・・・。

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